常に死を想う、ということの大切さ

医者や葬儀関係者でない限り、人の死、ということ、普段、あまり考える機会がない、と思います。自分自身は、相続税の申告、ということも業としているため、ある程度は身近に感じています。なので、今回は少し重めなそんなテーマについてです。

当たり前のことですが、人は必ず死ぬ反面、それはいつなんだということはわかりません。もちろん、年をとればとるほど死亡する確率はあがりますし、不健康な生活を送っても確率はあがります。平均寿命、くらいは、なんとか、ということもあるかもしれません。ですが、これらのことはあくまでも、傾向や確率であり、年をとっても長生きする人はいるし、若くても亡くなるひともいることでしょう。これは自分もそうですし、自分も周りにいる人もそうです。

ですが、人間、そんな当たり前のことをつい忘れてしまいます。それなりな年齢となれば、考えたりもするのですが、そうでないとなかなか考えられない、そんなことも多いことでしょう。どうしても、目の前の仕事、目の前の用事に追われてしまいます。あたかも、死を遠ざけ、無限の生を生きているような錯覚に陥ったりすることもあるでしょう。

そこから生じる問題ですが、まず一つめとして、いざ自分や周囲に事故や病気があったりすると、慌ててしまいます。もちろん、準備万端という人はなかなかいないのですが、ある程度心の準備ができているのと、そうでないのとでは、やっぱり違うような気がします。

もう一つの問題として、無限の生を生きている、と思うと、生の密度が薄くなるような気がします。これは、期限がないことだと、面倒なことはつい後回しにしてしまいます。一般に人生の課題、と考えることは面倒なことが多いので、目の前のことに流され自分の人生の課題に取り組めず、結局、できずに一生を終えてしまう、ということもひょっとしたら生じうるかもしれません。逆に、有限の生と認識すれば、その期間をどう充実させるのか、ということを考えるようになり、それを実行に移そうという気になるものです。

ちょっと重ためな話になりました。ただ、人生は有限なので、感情や思考のレベルでも無限の生ではなく有限の生を生きていく、ということが大切ではないか。生が有限であるからこそ、そこを生きるか、ということを考えるとともに、密度を出来る限り濃くしたい、と考えています。

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