「憎まれっ子世に憚る」ではなく「嫌われるくらいでないと大きなことはできない」でしょうか

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憎まれっ子世にはばかる、ということわざがあります。これは、「憎まれっ子世にはばかるとは、人から憎まれるような者ほど、逆に世間では幅をきかせるものであるという」という意味です。改めてこのことわざのメカニズムを考えてみました。

強烈な賛同者とアンチができる

一つとして人と変わったことをしたり目立つようなことをし、それが世に広まるようになると、その周りの人の反応は二つに分かれます。つまり賛同する人とアンチの人の二通りのタイプの人が生じます。

有名人を見てみるとわかります。時折、すごくたたかれたり炎上したりする人がいますが、その人にはファンの人がついていて、そのファンの人がその人を支えるわけです。

逆に、個性を出さない、目立たないようにしていれば、叩かれることはないのですが、賞賛されることもなく、結局無難に終わってしまう、ということがあるでしょう。

叩かれてもめげない

また、世に出る人は心が強いです。上記にあげたように、目立ち始めると叩かれるようになります。

人は叩かれるのは嫌なので、叩かれるとつい、身を引いたり、そのことをやめたりしてしまいます。でも、やめてしまうと、そこで話は終わってしまい、世にはばかる、ということも特になくなってしまう。

逆に、叩かれる状態を耐えたりかわしたりして、うまくしのぎつつ進めていくと、やがて活動が育ち実を結ぶということも生じます。憎まれても気にしない、というところが必要なのかもしれません。

一人では大きなことはできない

一人だと大きなことはできない。嫌われることをさけつつ、自分の意思を通す、というには、一人でする、ということがあります。実は、僕自身はこの「一人でやる」ことは多く、その背景としてこちらがあります。

ただ、一人だと出来ることに限度があるので、人を集めるようにできれば。世にはばかる人は、意外と人の中心になったり人を動かしたりするのがうまい、と感じることがあります。

まとめ

このように、憎まれっ子世にはばかる、というのは、割と自然なメカニズムで、人に憎まれることをおそれていては世に出ることはできない、ということになります。

ただ、全ての面で嫌われるのは、ただの痛い人になってしまうので、礼儀、立ち居振る舞い、言葉遣いなどは整えて、「これ」というものについては自分の意思を通す、というのがよいでしょう。

二重生活/松本