日常生活から得られる学び (17)~「1年生は坊主にすべきだ。」の呪いと、自分の嫌なことは人にさせないことの意義

今回は、少し過去のことを振り返ってみます。もう、20年以上前になる中学生時代の部活の時の思い出。どうしても、辛い思いをすると、他の人にもしいたくなりますが、もうそれはやめようよ、というお話です。自戒を込めて振り返ってみます。

中学校の部活時代の風習

中学校で、サッカー部という部に入部しました。当時は、1年生は入部したときに坊主にしなくてはならない、というわけのわからないルールがあって、私も仕方なくその時坊主になりました。今でこそ、「坊主でもかっこいい人はかっこいい」、とか、「1回くらい頭を丸めてみたい」、と思うのですが、当時はそれが嫌で嫌で仕方ありませんでした。床屋で髪を切ってもらっているときは、つい泣きそうになってしまいました(この辺は記憶が曖昧なので、もしかしたら実際に泣いていたかもしれません)。

そうこうして、三年生になりました。新しい顧問の人が来て、「さすがに1年生だから坊主になるというのもおかしいので、スポーツ刈りにしよう!」と言いました。その時、なにが起こったのか。2、3年生の人は大反対。その理由は、「俺たちだって、坊主になるのは嫌だったのに、坊主になった。なのに、あいつらは坊主にならないなんてずるい。」

そこで、顧問の人が言った言葉を今でも覚えています。「君たちは自分が嫌だと思っていることを他人にさせるのか?」。そういったら、ピタッと反対の声が止まりました。

自分のところで止めようよ

人の習性として、自分が受けた損害であり不利益なことを、後に続く人がまぬがれるというのは嫌がる傾向があります。つまり、自分が嫌な目にあったのに、後の人がそれを回避すると不公平だと感じてしまうのですね。そうすると、相対的に自分が損をした感じになり、面白くなく、それを改善することに反対したくなるわけです。

こういうことはよく聞く話で、人間の習性であるのですが、これを貫くと結局社会がよくならないですよね。上の例でいえば、顧問が2,3年生の反対に屈すれば、その後も1年生は坊主になるわけでした。当時は坊主になりたがる人はいないので、嫌な思いをする人が量産されていたことでしょう。

そこをぐっとこらえて、自分が嫌な思いをした時に、それを後に続く人たちが受けない、というようにすれば、時間の経過とともに社会がよりよい方向になるのかなー、と考えました。

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